今回は私が好きな有名な投資家について説明していきたいと思います。
参考にしたのはこの本。
伝説の投資家の共通点
優れた投資家は、金融業界のスターのような存在です。
優れた投資家は皆大金を稼ぎ、多くの場合、顧客から預かった資産も同様に増やしきました。
一方、これらの投資家は、取引に適用した戦略と哲学が大きく異なります。
投資を分析するための新しく革新的な方法を考案した人もいれば、本能的で証券を選択した人もいます。
これらの投資家が変わらないのは、一貫して市場に打ち勝つ能力です。
ウォーレンバフェット
誰もが知っているこの超有名な投資家。めちゃくちゃ金持ちなおじいちゃん。
「オマハのオラクル」と呼ばれる ウォーレンバフェット は、歴史上最も成功した投資家の1つと見られています。
ベンジャミングラハムが定めた原則に従い 、彼は主にバークシャーハサウェイを通じて株式や企業を購入することにより、数十億ドルの財産を獲得しています。
1965年にバークシャーハサウェイに10,000ドルを投資した人々は、今日の5,000万ドルを上回っています。
バフェットの投資スタイルの規律、忍耐力、および価値は、何十年もの間市場を常に上回っています。

資産はこのくらいあるらしい

特徴
- 長期投資
- 集中投資
- バリュー投資
バフェットの投資哲学は至ってシンプルなもので、
- お金を減らさない
- 1のルールを忘れない
という2つのルールから成り立っています。
この人の哲学はめちゃくちゃ参考になるので、よく見ておくべし。
この人が唯一すすめる本は、これ。
ジョージソロス

ジョージ・ソロスは、広範な経済動向を、債券と通貨のレバレッジ化された商品に変換して取引することの達人でした。
投資家として、ソロスは短期的な投機家であり、金融市場の方向性に大きな賭けをしていました。
1973年、ジョージ・ソロス はソロス・ファンド・マネジメントのヘッジファンド会社を設立し、 最終的には有名で尊敬される量子ファンドに発展しました。
ほぼ20年間、彼はこの攻撃的で成功したヘッジファンドを運営し、年間30%を超えるリターンを積み上げ、2つの場合には、100%を超える年間リターンを掲示しました。
「イングランド銀行を潰した男」と言われるこの人。
ヘッジファンドを運営し、短期で利益を上げる投機を得意としていました。
特徴
- 信用取引
- 市場分析、中央銀行の政策分析
- マクロな流れに乗る
哲学にも深い教養があり、バフェットとも違う側面がある。
ジェシーリバモア

めちゃくちゃ特徴的な投機家。
Jesse Livermoreは、正式な教育や株式取引の経験がありませんでした。
彼は勝者と敗者から学んだ自作の男でした。
これらの成功と失敗が、今日の市場全体で依然として見られる取引のアイデアを固めるのに役立ちました。
リバモアは10代前半に自分自身の取引を開始し、15歳までに彼は10万を超える利益を生み出したと伝えられていました。
特徴
- 明確なエントリールールを持って、転換点をとる。
- 勝負所以外はエントリーしない。
- 勝負所には資金管理しながら、多くの資金を打っ込む
- ピラミッディング
4回の破産・自殺などのすごい経験がある。
概要
マサチューセッツ州シュルーズベリー出身。貧しい移民の家庭に産まれ、証券会社の黒板書きの仕事に携わりながら資金を溜めて株取引を始めるに至った。
農業を継がせようとしていた父に反発し、母の手助けにより14歳で家を飛び出し、ボストンで株仲買店の小僧になった。生まれつき数理の才に恵まれたリバモアは、ここで独自にティッカーテープを読んで、相場変動の特性を探るようになっていた。15歳のとき年上の同僚から差金決済取引の原型となるバケット・ショップに誘われ、3ドル12セントを儲けた時から投機家へと足を踏み出すことになる。彼は『無鉄砲な少年相場師(boy plunger)』の異名が付くほどバケット・ショップを相手に勝ち続けた。
1897年、 ニューヨーク証券取引所に発注する実際の株取引を開始するが、6ヶ月足らずで破産する(1度目の破産)。これは彼自身が後に語ったところによると、バケット・ショップでは注文が店頭で即刻執行されるのに対し、当時は電信を使っていたためにタイムラグがある本物の株取引の違いによるものであった。しかし、もぐりの証券会社の裏をかいて金を巻き上げ、復活する。
1900年10月、ネティ・ジョーダンと1度目の結婚。翌1901年、強気の相場に乗り5万ドル(現在の貨幣価値で20億円程度)の資産を作る。1906年、世界経済の情勢を分析して、この5万ドルを空売りに投じる。株価が下落するという読みは正しかったものの仕掛ける時期が早すぎたため、直後の株価の反騰の波に飲まれ、5月に2度目の破産。妻・ネティのために購入した高額の宝石類を質入して投機につぎ込むという頼みを断られたことをきっかけに、夫婦仲は悪化し別居が始まった。
1907年、2度の破産から立ち直り、100万ドル(現在の貨幣価値で200億円)の資産を保有するようになるが、「コットン・キング」の異名を持つパーシー・トーマスの勧めでコットン市場にも手を出すようになる。しかし1908年、コットン相場の大暴落で綿花の買い占めに失敗、莫大な負債を抱えることになる。 負債を抱えながら投機を続けることに限界を感じたリバモアは、債権者一人ひとりに「再起したら必ず負債は返す」と約束してまわった上で1915年2月18日、破産を申請、受理される(3度目の破産)。 破産が確定して精神的に開放されたリバモアは再び市場で勝ち始め、1917年に債権者達に負債を完済する。 同年10月に長年別居していたネティと離婚し、ショー・ガールだったドロシー・ウェントと出会って2度目の結婚。2児をもうける。
1929年9月4日、世界恐慌の引き金となった暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない、1億ドル(現在の貨幣価値で4000億円)以上の利益をあげる。10月24日、リバモアは大量の売りポジションを持っており、もし彼がこのまま売り続ければNY市場は本当に崩壊しかねない状態であった(リバモアは売り買いが上手くいっている時にさらに積み増すピラミッディングを得意とした)。ついにJ・P・モルガンがリバモアにわざわざ使いをよこし、市場を救済するため、これ以上の売りは行わないよう要請してきた。これを受け翌10月25日の朝、リバモアは猛然と買い戻しに入り、主要なあらゆる株をも買い捲る行動に出た。これをきっかけに市場の流れは変わり、暴騰相場が始まった。銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝した。
1932年9月16日、不倫が元で別居していたドロシーと離婚。離婚後しばらくしてハリエット・メッツ・ノーブルと出会い、1933年3月28日に結婚。ハリエットの結婚は4度目であり、しかも彼女の前夫たちはみな自殺していた。
1934年3月5日、4度目の破産。
1940年3月、息子ジェシー・ジュニアの勧めから『How to Trade in Stocks』を著すが評判はいま一つであった。同年11月28日、ニューヨークのホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げた。晩年はうつ病を患っていた。 彼が死に際して残した信託と現金は500万ドルにのぼっていた。 カクテルのオールド・ファッションドを好んで飲んでいた。彼がバーの席に着くと、何も言わずにバーテンが作ったという話もある。
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